大学3年生、秋
私はずっと、さみしかった。
その根源を辿ると、やっぱり何事も幼少期に還る。
1番そばにいて欲しい時期に妹ができた。
共働きだった両親が授業参観に来ることは滅多になかった。
二分の一成人式とやらを、私の小学校は親への感謝発表として授業参観でやった。
私の発表は、友達のお母さんが代わりに聞いてくれた。でも本当は、ママに聞いてほしかった。
ピアノの送り迎えだって、定年退職した母親の元上司の老夫婦がしてくれた。雨の日も、雪の日も、
放課後はずっと学童にいた。
一応ことわっておくと、幼少期、両親の代わりに私に時間をくれた人たちを、大切に思っていることに変わりはない。
ふと、気がついた。
私の求めてるものは、幼少期の、親からの愛だった。
もちろん、両親なりに、できる限り時間を割こうとさて、愛してくれていたことは分かる。
でも、圧倒的にひとりだった。
それは、今もう手に入らない。
だから今度は、自分が欲しかったものを誰かに与え続けることで、自分の孤独も満たそう。
そうやって考えたら、ふわっと肩の荷がおりて、
寂しさも受け入れられるようになった気がする。
自分をいちばん好きでいてくれる存在が欲しかった。
深夜、ぐったりとしたさみしさに沈んでしまった時に、底に着く前に救いあげてくれる安心感が欲しかった。
でも、悲しむのも私、悲しみから抜け出すのも私であるべきだし、
誰かを愛おしく思って大事にするのと、大事にしてくれる人を大事にしようとするのは、全く別物だ。
その事をしっかり考えられた時から、私は寂しさとうまく生きられるようになった。
1人でも、独りだとは感じない。
誰も私を1番に好きでなくても、私がいちばん私を好きでいようと思える。
私は1人でどこへでも行けるし、なんだってできる。
際限の無い虚無感も、理由のない孤独感も、もう1人で何とかできる。
その上で、1人でもいられる上で、どこで誰とどうしていきたいかを、考えてる。
ただ、
執着をなくそうと思うと、本気で想うことが怖くなる。
失敗を恐れて100パーセントの努力をしないしょうもない行いと同じことをしてるような気がする。
心を明け渡すのは怖い。傷つくのも怖い。
傷つく覚悟をするのは、口で言うほど簡単じゃない。
それが、次の課題!